ここ最近の世界・社会の様子を見ていて、昔読んだアメリカの哲学者、リチャード・ローティを思い出したので、メモ書き的に書いておこうと思う。

ローティは「自己の良心は必然性に基づく合理的なものというよりも、生まれ育った文化的環境によって育まれた偶然的なもの」と考えている。そして、偶然的なものであるけれど、他者の残酷さや苦痛に対する感受性によって、残酷さや苦痛を受けている人に対して共感することによって他の多くの人々が連帯し、その残酷さや苦痛をできるだけ減らそうとすることによって、社会の道徳が形成される、と考える。

しかし、現実的には、遠い異国の人々のことよりも、自分の家族などの身近なところの方が気になるものだ。また、度々発生する虐殺などは「〇〇人」は「我々とは違う存在」、つまり極端に言えば「〇〇人は偽人間・非人間」であるから「浄化の対象」となり、つまり共感の対象とならないことによって起きてしまう。

その問題をできるだけ解消するためには、「我々の仲間である」という意識をどれだけ拡張できるかにかかっていて、それは「感情教育」によって育まれるとローティは言う。残酷さや苦痛を共感できるような物語を通じて、その意識が教育されて強くなっていく。ジャーナリストによるレポート、漫画、小説、映画、などはその役目を担う。

しかし、その感情教育は「安心な状態にある人たち」具体的には「くつろいだ気分でそれに耳を傾けられるほど、十分な時間的ゆとりのある人たちにしか効果がない」とローティは言う。そしてそうした「安心」は「自尊心または自己に価値があるという意識を持つのに、自らと他者の区別立てを必ずしも必要としないほど十分に危険のない生活状態」である。

また「アイロニー」が必要だとも言う。「アイロニー」とは「自己という存在に対して徹底的に懐疑的であること」、「自己を相対化する視点を持つこと」である。

<参照>

R・ローティ「人権」論の精査―その批判的継承に向けてー 安部彰 Core Ethics Vol.2(2006)

ローティの道徳論 大賀祐樹 社会学論集 Vol.10 2007年9月