『「傷つきました」戦争〜超過敏世代のデスロード』を読んで考えたことの大雑把なメモです。本の内容に関してはあまり書いていなくて、読んだことをきっかけに考えたことをざっくりとまとめたものです。

『「傷つきました」戦争〜超過敏世代のデスロード』(カロリーヌ・フレスト著 堀茂樹訳 中央公論社)という本が話題になっていたので読んでみた。かなり大雑把にその主張をまとめると、アイデンティティ至上主義に過剰に偏ることは人間をその人自身ではなく何らかの属性で判断することに繋がり、それは結果的に差別主義者を利することになる、だからもう少し「普遍主義」的思考を持つべきだ、また文化は混淆することによって新しい何かが生まれていくということもあり、そうした面にも目を向けるべきだ、議論や対話を封じ込めてしまうようなやり方は何も生まない、ということだろうか。それらに関しては、僕は大筋では異論はないのだけれど、全体的にやや煽情的にも感じられる物言いなだけに(なにしろタイトルからやや煽り気味)、これが都合の良いところだけ切り取られて、文化の盗用やマイクロ・アグレッション自体の否定・バックラッシュの材料に使われないよう注意する必要はあるだろうな、とも思った。

ところで、この本を読んだことで僕は「普遍主義」と「相対主義」というものを改めて考えた。本書は「もう少し普遍主義的視点を持つべきだ」という主張なわけだが、その対に置かれた「アイデンティティ至上主義」というのは相対主義の亜種ともいえるだろう。

歴史的に見ると、西洋文明は「普遍性」を重視する時代が長く続いたが、構造主義などの台頭を経て多文化主義や文化相対主義が現れる。1990年代以降活発に議論された「多文化主義(マルチカルチュラリズム)」は広義には、「それぞれ異なる多数派文化・少数派文化・先住民文化などが一つの国家なし地域ないし物理的空間に競合している場合に、それらを同化させてゆこうとすること同化主義ではなく、それぞれの文化の自律性を最大限に尊重することを通じて、望ましいかたちで相互の共存を図ってゆこうとする考え方」(「多文化主義の批判的検討 公共的対話空間の理論的前提としての」中野昌宏・日本公共政策学会年報1998)だ。『「傷つきました」戦争』では批判されているカナダの哲学者、チャールズ・テイラーなどが代表的な論者として知られている。

この考え方について、引用した部分だけを読むと、特に問題はないように思えるかもしれないが、様々な議論の中で、この多文化主義には批判的な意見も多数生まれた。その中でも、その文化を設定するのがなんらかの権力側であったり、文化というものが過剰に本質主義化してしまったりすると、それは抑圧を生む、という指摘は重要だと思う。

もうひとつの「文化相対主義」は、多文化主義と似ているが、簡単に説明すると、世界には様々な文化があって、それには優劣がない、とする考え方だ。アメリカの文化人類学者のクリフォード・ギアツは「何より重要なのは、他の人々の生を私たちは私たち自身が磨いたレンズで見るし、彼らは私たちの生を彼らのレンズで見るということをはじめて主張したのが、人類学だということです」(『解釈人類学と反=反相対主義』)と言っている。そうすると、「忌まわしい過去から続く因習(生け贄など)も認めるのか」「ナチズムも文化として認めるのか」というような批判もされることになる。しかし本来、文化相対主義は、いろいろな不具合を抱えながらも「お互いに違う」「多様性を良いものでも悪いものでもなく事実としてそのまま見る」という前提に立って、対話と議論を積み重ねて相互の理解とより良い共生を目指す姿勢のことでもある。この姿勢を無くして対話を封じこめてしまってはならない。また、アメリカの哲学者・ドナルド・デイヴィドソンはこう言っている。

人間の多数性もしくは複数性は、たとえばデイヴィドソンにしたがって考えるならば、その単位は個人であるべきで、何らかの集団であるべきではない。

(「多文化主義の批判的検討 公共的対話空間の理論的前提としての」中野昌宏・日本公共政策学会年報1998)

ダイバーシティを考えるときに忘れてはならないのはそういうことなのだろう。例えば「神経発達症(発達障害)」という特性を持つ人たちは、そのような大枠として共通する特性は持っているかもしれないが、その一人一人はあくまでも違う存在であり、理解するには一人一人を見なければならない。そのときの「人は人それぞれ違うがそれで良い」という考え方が、「人」一人一人ではなく何らかの属性・集団にすり替わった時に、それは本来の多様性でも文化相対主義でもなくなってしまう。そして、何らかの集団や属性、文化を本質化し正当化しすぎることは、それは特定の権力者や抑圧者をも正当化する口実になりかねない。そしてあまりに個別に別れすぎて分断・分離が進みすぎるせいで、数的にも社会集団の中での力を失うと、結局何らかの抑圧者を利することにもなりかねない。

僕たちは相対主義も普遍主義も、両方バランスをとって両立させていかなければならないのだろう。相対主義的な視点を持ちながら、相互の対話と議論によって普遍的な正しさを少しずつ積み上げていく。矛盾する二つの性質を持つということは一見不可能なようにも思えるが、例えば身近な存在の「光」は「粒子性」と「波動性」という矛盾する二つの性質を持っている。本来自然界とはそうやって成り立っているのかもしれない。