サンデー毎日の松尾潔の連載「佐野元春と『時代と霊性』」。読んで思うことが良い意味で多すぎるので、とりあえず主に最終回について考えたことの一部をラフなメモ的に書いてみる。

最終回には「過去を歌い直す誠意について『再定義』に込められた『問い』」という副題が添えられている。

松尾は佐野の創作活動での「再定義」に触れて「作品は時間のなかで変わる。聴かれ方も、社会も、作者自身も変わる。ならば、変わった自分で、もう一度そこに立ち会うしかない」と言う。つい最近では、志摩遼平が毛皮のマリーズの1stアルバムのタイトルを『戦争をしよう』から『ファースト』に改題したのが話題になったが、これもそうした「もう一度そこに立ち会う」一例だろう。そして佐野は松尾に「革命とは?」と訊かれると「いま目の前にある体制をひっくり返すことではなく、自分自身の価値観の変化を柔軟に受け入れよう。そのことを意味します」と答えている。

こうした「再定義を繰り返すこと」「変化を受け入れること」は、心理学的観点から考えても腑に落ちる。

人のアイデンティティは青年期に確立されたものがそのままずっと一生を通して一貫して存在し続けるというわけではない。生きていく上でさまざまな環境や状態の変化(例えば加齢や人によっては結婚・出産など)を受けることで、アイデンティティの感覚は「一貫していくこと」と「絶えず変化し続けていくこと」とのバランスの中にあり、危機期と安定期を、螺旋を描くように繰り返していく。佐野の創作活動の「過去への誠実さ」と「再定義」はまさにこれを体現している。これは人だけではなく「社会」でも同じことが言えるのではないかと僕は思う。それはここで松尾が紹介している「政治における保守とは何か」という問いへの中島岳志の「永遠の微調整」という回答にも通じると思う。

このことは松尾の「壊さない。だが、放ってもおかない」という言葉とも繋がっていく。「一貫していくこと」と「絶えず変化し続けていくこと」とのバランスの中にあって、松尾の言葉を言い換えるならば「何を継承し、何を変えていくのか」。福田恒存の「保守とは横丁の蕎麦屋を守ることである」という言葉の引用は、この問いに対し「生活の現場に根ざした人の営み」を大切にすることという、一つのスタンスを提案している。

これは、1981年に『Back To The Street』(ストリートに戻れ)というアルバムタイトルで音楽シーンに登場してきて以来、一貫した佐野の姿勢であり、松尾がこれまでに発言してきた「ラブソングの口で政治も語ろう」「やわなラブソングを作るためには、鋭く声を上げなければならない」という言葉にも地続きだろう。横丁の蕎麦屋もラブソングも生活の現場に根ざした、守るべき大切なもの。それを守るためには「声」が大切なのだ。生活に根ざしたその声は、保守・リベラルという単純なバイナリーを超え、あらゆる人にも「滲むように」侵食していくものだ。実際この最終回で紹介される言葉や人物は、一般的に保守・リベラルとみなされる両方から引用されているが、双方の立場を超えて共通した真理が滲んでいる。

この「壊さない。だが、放ってもおかない」「何を継承し、何を変えていくのか」は、松尾潔の小説『永遠の仮眠』にも現れている。この優れた小説に関しては以前こちらで感想を書いているので興味ある方は、もちろん小説自体も含めてご一読を。

そしてこの連載のタイトルにもあり、重要なキーワードでもある「霊性」。松尾は「『霊性』とは、教義ではない。怒りを祈りへと変換する回路」「祈りとは、弱さではない。迂闊に断言できない世界で、それでも言葉と音で関わり続ける覚悟の呼び名だ」と言う。

この言葉を読み、僕は「怒り」には「問い」が含まれていることが多いと考えた。人は「なぜ!? どうして!?」という問いを、ときに怒りという感情表現を伴って強く表現する。人がそのように問い、怒る行為は、特にデモクラシー登場以前の世界では、神的な、霊性を持った存在に対しては「祈り」としてぶつけることが許されてきた。そこではどんな存在も「包摂」されることが保障されているからだ。今ここで佐野が「『言論』に欠けていて音楽には『霊性』がある」ということは、そんな感じも近いかもしれない。そこには、佐野が『詩人を撃つな』で「やがてあの人は 運命を知って 頑なな夜へと向かった 結局振り向かないで 見知らぬ朝へと去ってしまった」「やがてあの人は 周りのすべてを許せなくなって泣いた」と歌った2017年より前の2013年に『詩人の恋』で「どこか居心地のいい場所を作って 君といつかこの世界を変えてみたい」と歌った世界に近づける可能性があるのだと僕は思う。