BUCK-TICKのインディーズ1stシングル「TO-SEARCH」がリリースされたのは1986年。僕は鹿児島で15歳だった。

ちょうどその前々年くらいからだったか、僕はインディーズの音楽にハマりはじめていた。それまで聞く音楽は4歳上の兄の影響下にあり、今で言うところのシティ・ポップが多かったのだが、だんだんその「兄の影響下」にあるということがつまらなく思えてきたし、そうした反発心だけでなく、当時の自分が本来好きな音楽や表現というものとは少し違うように感じてもいたのだ。

そんな時になんとなく出会ったのが1985年のBOΦWYの3rdアルバム『BOΦWY』そして1986年の『JUST A HERO』だ。これは当時の僕が求めていた「違う音楽」という気持ちにピッタリくるものだった。BOOWYはインディーズではなかったけどインディーズとも繋がりがあったので、その辺りを入り口にして、当時の『宝島』『DOLL』『FOOL’S MATE』などを読み始め、ラフィンノーズ、有頂天、ウィラード、などのいわゆる御三家、SODOMとか色々ハマっていくのだが、その中でもAUTO-MODにはかなりのめり込む。きっかけはBOΦWYの布袋や高橋まこと、さらにはPERSONZの渡辺貢などが参加していた伝説のバンドだ、という情報を得たからなのだが(BUCK-TICKがリスペクトしているバンドでもある)、最初そのボーカルの癖の強さに戸惑った。しかしこれが一度慣れてしまうと、鹿児島という地方都市にいた10代では想像していなかった世界と接続された気がして、一気にのめり込んだ。ただ、残念なことにAUTO-MODは1985年11月には解散していて、僕がその存在を知った時にはすでにその活動を生で見ることも新作を聞くことも叶わなかった。他のバンドも、活動の最初から知っていたわけではなかったので、「活動の最初から」見て聞くことのできるバンドと出会いたいなという気持ちも少しばかりあった。

中3〜高校生の僕は、インディーズのレコードに小遣いのほとんどを費やすようになる。当時知る限りでは鹿児島市内に1〜2件しかインディーズ版を扱っている店がなく、目当てのものがあったとしてもすぐなくなってしまうかもしれないと、週に何度も通っていた時もあった。

そんな中で「BUCK-TICK」に出会う。雑誌からの情報が先だったのか店で見つけたのか、もはやいまいち覚えていないのだが、まず思ったのは「バクチク?なんか良いんだか悪いんだかよくわからないバンド名だな」ということだった。そしてシングルのEPが一枚あった。そこには櫻井敦司の顔がバーンと載っていた。「かっこいいな」と思って即購入。そして家でターンテーブルに早速乗せる。

第一印象は正直なところ「なんだかサウンドも声も薄いというか軽いな」「見た目の過激さに比べてポップだな」というものだった。その頃にはインダストリアル期のSODOMとか聴いてたのだから、そういう影響もあって軽く聞こえたのかもしれない。しかしその音楽には何か良い意味での違和感があって「なんか、ポップなんだけどどこか変な曲だな」と思った。僕はこの頃は音楽に「違和感」を、「共感」よりは「驚き」を求めていたこともあって、そうした違和感は望ましいものだった。そして、その頃からギターを弾いて曲も作り始めていた僕は「これなら弾けるかも」と思ったのも大きかった。布袋寅泰はどんどんバキバキに弾きまくるようになっていたし、その他のバンドも結構テクニカルなバンドが多く、とはいえシンプルなパンクバンドは聴く分にはいいけどやろうとは思わなかったので、そういう点ではBUCK-TICKは良かったのだ。あと、今では僕はあまりそういうことに仕事以外では興味を持たないけれど、あの見た目にしろ、「バクチク現象」にしろ彼らが明らかに「戦略的に」動いていたのもカッコよく思えた。そして1987年にアルバム『HURRY UP MODE』が出る。これは相当聴き込んだ。相変わらず音は軽いし歌も細い。しかしとにかく曲が良かった。その後、彼らの作品は現在に至るまで全て聞き続けることになる。

1990年に僕は大学進学とともに上京。すぐアルバイトを始めたスーパーに今井寿が買い物にきたとき、僕は違うレジに立っていたのですごく悔しい思いをした。上京後もBUCK-TICKは聴いていたのだけど、東京はまさに「渋谷系」の時代に突入していて、僕もその影響でそのあたりの界隈と付き合いが増えた。また、セカンド・サマー・オブ・ラブやマッドチェスターのムーブメントにすっかりハマっていったし、渋谷系的な人に「ふーん、そういうの聴くんだ」と言われて嫌な思いをしたため、なんとなく「AUTO-MODやBUCK-TICKが好きです」と自己紹介では言わなくなった。多くの人に評価が高い『狂った太陽』も、「スピード」という曲が「なんだJESUS JONESじゃん」と斜めに聴くようにもなっていて、実は当時そこまでハマれなかった。渋谷系はなんらかの元ネタ自慢的な要素があるカルチャーだったが、僕はBUCK-TICKにはそれを求めていなかったので、ちょっとがっかりもしたのだ。今改めて聴いてみると、アイデアの元はJESUS JONESであっても、楽曲としての表現はBUCK-TICKでしかなく、一部の渋谷系の音楽のように「そのまんまじゃん」みたいなことは全くない。当時の自分の不明さを叱りたい。

しかし、作品を出すたびに、美学は全くぶれずに成長と変化をしていく彼らに改めて脱帽し、やはり「僕、BUCK-TICK好きなんです」と言うようになるまでそんなに時間はかからなかった。この「美学はぶれず、成長と変化はしていく」ということは、自分が50歳を超える年齢になってきて、人生においてそれを実行できることの凄さと素晴らしさを改めて実感する。その姿をただ眺めているだけでなく、自分の人生にも反映させていくことが、彼らが、そして櫻井敦司が表現してきたことを本当に受け止めるということであるような気もしている。