以下はNHK「100分で名著」テキスト『ローティ 偶然性・アイロニー・連帯 「会話」を守る』(朱喜哲)からの引用。パレスチナでの虐殺、そのほか身近に起きているさまざまな抑圧に対して、考えるヒントとなるように思い、メモ的に引用。また、何らか表現行為に関わっている者は、ここからその表現の持つ役割、力、意義ということを考えてみても良いのではないかとも思う。

苦痛は非言語的である。(略)
残酷な行為の犠牲者、苦しみを受けている人びとには、言語によって語りうるものはほとんどない。だから、「非抑圧者の声」なるものや「犠牲者の言語」なるものは存在しない。犠牲者がかつて使用した言語はもはや働いていないし、新たに言語で語るには、犠牲者はあまりにも大きな苦しみを被っている。そうであれば、彼らの状況を言語に表現する作業が誰か他のものによって彼らのためになしとげられなくてはならないだろう。(リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』第Ⅱ部第4章)

当事者はその渦中においては自身の苦痛や苦境を整然としたことばで語ることなどできないし、そんな要求をすべきではない、ということです。つまり「こっちがわかるように言ってくれないと、何が苦しいかわからない」というような多数派の態度をこそ戒めているのです。だからこそ、その状況の残酷さや悲惨さを、ひとまずは他の者がことばにする仕事が必要になってくる、そう言っているのです。(朱喜哲)

「人間は他の動物よりも(知性や尊厳をもつと言うのではなく)はるかによく感情を理解しあうことができる。」(と言うべきです。・・・そうすれば)自分たちのエネルギーを感情の操作に、つまり感情教育(sentimental education)に注ぐことができるからです。その教育はさまざまな種類の人間にお互いに知り合うチャンスを与え、自分たちと違う人たちをにせの人間と考える傾向に歯止めをかけることができるでしょう。この感情操作の目標は、「私たちの同類」とか「私たちのような人たち」という言葉の指示対象を広げることにあります。(リチャード・ローティ『人権について オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』)

我々を拡張せよ。これがまさに、ローティが考える希望としての感情教育です。これがなければ残酷さの回避というものは機能しはじめない。その意味で、感情教育はリベラリズムにとって非常に重要で不可欠な要素です。端的には、被害をありありと描くジャーナリズム、ルポタージュ、そしてフィクションが、その役割を果たすことになるでしょう。私たちはそうした分野の作品を通じて、被害者が置かれた悲惨さ、残酷さ、そしてそれが偶然のものでしかないーつまり私たちにも起こりうるーということを想像することが可能になります。(朱喜哲)

私が提起する見方は、道徳的な進歩と称される事柄があること、しかもその進歩が現実により広範な人間の連帯へと向かっていることを肯定する者である。しかし、その連帯は、あらゆる人間存在のうちにある自己の核心、人間の本質を承認することではない。むしろ、連帯とは、伝統的な差異(種族、宗教、人種、習慣、その他の違い)を、苦痛や辱めという点での類似性と比較するならばさほど重要ではないとしだいに考えてゆく能力、私たちとはかなり違った人々を「われわれ」の範囲のなかに包含されるものと考えてゆく能力である。(リチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』第Ⅲ部第9章)