先日、12/21にDAYDREAM吉祥寺での「表現者のためのメンタルヘルス講座 Vol.14 ジェンダー平等と人権」を行いました。その際に触れたことも含め、自分にとってのメモの意味で「人権」概念がどのように成立し、発展し、また危機を迎えてきたのかを書いておきます。

人権の概念は時代と共に新しく生まれ、拡張していくものでもあります。例えば、農耕中心の社会だったときにほとんどの民は、子どもの「教育」についての権利を必要と考えていませんでした。教育を受けるよりも農作業に携わる方が重要だと考えていたからです。同じようなことは今でもあるでしょう。「自分が、新しく生まれた人権に関して気づいていないのではないか」という意識を常に持つことも必要なのだと思います。そして、新しい人権が生まれるたびに社会の中で摩擦が生じます。摩擦の解消は一朝一夕に解決するような問題ではなく、これまでも長い時間をかけて解消してきました。このようにして積み重ねてきた「人権」の歴史を大切にしたいと思います。

前人権時代

「人権」の概念が成立したのは今から200~300年前で、人類の歴史の中では比較的最近のことでもある。それ以前にもその萌芽は見られ、例えば最初の成文法とされるハンムラビ法典は、人々が暴力から社会的保護を受ける「権利」を与えたと解釈できるし、ローマ社会では「万民法」が生まれ、法律は正義であり、永久不変のものでなければならないという「自然法」の考え方に基づいて、領域内の外国人を含むすべての個人に市民権を付与した。


*「自然法(Natural law)」

自然の(つまり人為的でははない)法という意味。例えば、科学法則は人間が作ったというよりも、自然に存在する法則性をすくい取って作ったものであるが、それと同じように、自然法も自然に存在すると考えられた法である、と考える。社会を規定するルールが、「誰かが作ったのではなく、最初から自然に存在したのだ」そして、「自然に存在するのだから、それは特定の社会や国家、時代に関係なく普遍的なものなのだ」と考えられたのが自然法思想。社会生活の基礎にあって,時代と場所とにかかわらず効力をもつと考えられる法。自然法は,古代には古くからの永遠の法,中世には人間に掲示された神の意思,近代では理性によって見いだされる人間の自然の法と考えられた。


また、宗教の発展は政治的・社会的境界を超えた人間の共感の可能性を開き、「人類」という観念に近づく役割も果たした。

しかし、「前人権時代」は、身分差別や男女差別を疑わなかったし、子どもは家族の内部問題として扱われた。そして「権利」よりも「義務」、「個人」よりも「共同体」が強調された。

人権概念の登場

ヨーロッパでの絶対王政の「支配者の意志が法律である」という考え方に対抗して、多くの論者が自然法の考え方を復活させ、「国王は法の支配下にあるべき」と論じ、個人の王権からの自由を柱とする基本的人権論を構築した。最初の市民革命とされるイギリス名誉革命では、王権に「被統治者の同意が正当な統治の条件である」と認めさせた。しかし、平等な権利があるとされたのはイギリス人のみであった

その後のアメリカ革命・フランス革命では、「人類の名において人間の平等」すなわち「人権」が宣言された。中心となったのは「言論出版の自由」「個人の生命の権利の保障」である。

また、市民の識字能力の向上によって、「小説」が読まれ、宗教や民族を超えた同じ人間であるが故の共感を得られるようになったことが人権論成立の基礎にもなった。

自分が「共同体の一員である」よりも、むしろ個人だと考え始めたことの影響も大きかった。具体的には、ギルドからの解放、神と個人が直接向かい合うことを求めたプロテスタント主義、科学の発達と、それに伴う探求・表現の自由の発展などである。

こうした人権概念の成長によって、19世紀になって奴隷制・農奴制が廃止され始める。

しかし一方で、主に西欧の先進国によるアジア・アフリカに対する帝国主義的支配による人権抑圧、「劣等人種」に対する差別が行われ、「西洋優越論」が展開される。これが後にヨーロッパ以外の伝統社会が「天賦人権論」を「外来のもの」「西洋文明の押し付け」として拒否する根拠にもなってしまう。

そうした中でも、たとえ戦時中であっても負傷兵や捕虜に対する最低限の基準が作られ、児童の労働規則、教育推進・義務教育、女性参政権、労働組合及び福祉政策などが生まれ、人権概念は発展していく。第一次世界大戦によってこの「人権」概念は暗転してしまうが、その反省に立って「国際連盟」によって子どもや労働者を中心として人権は前進していく。しかし再び、世界で情報操作、言論抑圧、弾圧、ファシストの権力掌握、そして第二次世界大戦が勃発。人権概念は大きな危機を迎える。


ハンナ・アーレントの指摘

歴史のなかで国家・政治はいつも権利をもつ人と持たない人の境界線を引いてきた。その境界線を民主的なものにしていこうという試みが近代の市民革命でもあった。その成果の一つが人権宣言であり、アメリカでは生命、自由、幸福の権利の追求が、フランスでは法の前での平等、自由、所有の権利および国民主権が、譲渡できない奪うべからざる人間の権利として宣言された。

しかし、多くのさまざまな権利は、国家という境界線、その境界の内側で国民や市民であることを前提としているため、20世紀に大量に生み出された難民や無国籍者の権利状態は、これまでの人権の定義では把握できないものになった。ハンナ・アーレントは以下のように述べている。

人権の喪失が起こるのは通常人権として数えられる権利のどれかを失ったときではなく、人間世界における足場を失ったときのみである。この足場によってのみ人間はそもそも諸権利をもちうるのであり、この足場こそ人間の意見が重みをもち、その行為が意味をもつための条件をなしている。自分が生まれおちた共同体への帰属がもはや自明ではなく絶縁がもはや選択の問題ではなくなったとき、あるいは、犯罪者になる覚悟をしないかぎり自分の行為もしくは怠慢とはまったく関わりなく絶えず危難に襲われるという状況におかれたとき、そのような人々にとっては市民権において保証される自由とか法の前での平等とかよりもはるかに根本的なものが危うくされているのである。


第二次世界大戦後

大戦後、その反省から1948年「世界人権宣言」が宣言される。

1961年アムネスティ・インターナショナルが創設。世界中の政治囚が釈放され、多くの政権が一定の人権基準を受け入れるようになる。また、同じ頃アメリカでの公民権運動の盛り上がりとそれによる一定の成果は、女性解放運動やその他差別を受けていた人々の権利回復運動へ、「ダイバーシティ」概念の成長へとつながっていく。

1975年ヒューマン・ライツ・ウォッチは政治的抑圧、女性子どもの権利を取り上げ、アメリカの監獄政策や移民政策。死刑制度を批判、中国における政治犯の逮捕、インドにおける不可触民の問題も取り上げた。

1980年代にはアパルトヘイト解消、アジア諸国の民主化がなされる。

1989年 東欧革命

1989年 国連子どもの権利条約

1991年 ソ連崩壊

1992年 「地球サミット」「自然と調和した健康で生産的な生活を確かなものにする権利」を人権の中心的課題に位置づけ

1995年 「国際女性年」家庭内暴力やレイプ、セクハラの定義を厳格化、法的に罰する努力に開始。同性愛者の権利。

2002年 ジェノサイド、人道に対する犯罪、戦争犯罪で個人を訴追する裁判を行うことを目標とした国際刑事裁判所が確立された。

2011年 情報技術の飛躍的発展による「アラブの春」。その一方で情報技術の発展は監視・管理、人権抑圧も進行させた。

新自由主義的グローバル化の下で、社会保障制度が後退、経済的不平等、貧困の拡大と環境悪化が進行し、ジェノサイドを含む地域紛争、テロリズムの表面化。

東ヨーロッパ・ロシアでは経済的・社会的不安定化が進み、民衆の抵抗を抑えるべく権威主義的抑圧体制が復活。中国をはじめとしたアジア諸国も権威主義体制化。

*「権威主義」 権威主義国家は政治的な権力が一部の指導者に集中する。軍事・独裁のほか、大統領や首相などが形式的には選挙で選ばれていても実態は独裁的な場合も含む。

東アジア諸国や中国は権威主義的体制の下で目覚ましい経済発展を遂げたためそれに自信を持ち、「西洋由来の人権論の押し付け」に反発するようになる。シンガポールは「人権と法の支配の主張は、本質的に個人主義的なものであり、アジアの社会機構に危害を加えるものである」、中国は「人権問題は全体として各国の主権の責任のうちにある」と発言した。

2022年 ウクライナへのロシアの侵攻、2023年 パレスチナ・ガザ地区で、発生したテロを発端にイスラエルによるジェノサイド。